がんこ妖怪堂


妖怪とはなにか?
 妖怪とは果たしてなんであろうか。その考察は数あれど、その結論については、いくつもあるとあるといえるし、一つもないともいえる。なぜなら、妖怪とは決して人の知り得ることの無いものだからである。
 「妖怪」というものは、人間が存在すると同時に存在し得る。柳田國男が『妖怪談義』において幽霊とおばけの違いを、前者は特定の人物のもとに現れ、後者は場所に存在すると定義した。この場合、妖怪として機能し得るのはおばけということになる。(幽霊と妖怪の明確な区分がなされたのは、明治以降で、鳥山石燕も幽霊を妖怪として描いている)つまり、幽霊は人と出会って初めて認識されるため、人と出会うまでは妖怪として機能しない。
 おわかりだろうか。機能と上記したが、その辺りが私の考える妖怪という存在である。妖怪が存在し得る過程とは、人が不思議なことを感じ、それを説明する装置として名前をつける。(わかりやすい例は「ふるやのもり」という昔話だと思う。)それが肉付けされ妖怪として定着していく。
 妖怪はいるか、と問われればいないと答えざるを得ない。(例えば、『山海経』に麒麟が記されているが、いわゆる首の長いアレではない。)かといって、妖怪が存在しないかといえばそうではない。人間が存在し、思考を続ける限り妖怪は存在する。



水木さんと柳田さんと鳥山さん
では、今回のお題。

 漫画家・水木しげる、民俗学者・柳田國男、画家・鳥山石燕。この三者の共通する事柄、それはもちろん妖怪だ。
 鳥山石燕は、江戸随一の妖怪絵師。
 柳田國男は、日本民俗学の巨人。
 この二人の作品が、水木しげる作品に計り知れない影響を与えたことをみなさんはご存知だろうか。
 水木の代表作『ゲゲゲの鬼太郎』。この作品に登場する善玉妖怪といえば、一反木綿、こなきじじい、砂かけばばあ、ぬりかべ、などがいる。対して悪玉妖怪といえば、ぬらりひょん、ももん爺、牛鬼、などだろうか。
 実は、この構図は、柳田『妖怪名彙』におさめられた妖怪と、石燕『画図百鬼夜行』に描かれた妖怪との対決の構図なのである。
 前者は、伝承のみで姿はなく、水木によって姿を与えられた妖怪、後者は、石燕によってすでに姿が与えられていた妖怪である。
 水木作品の悪玉妖怪の大半は、石燕の画のディティールを損なうことなく描かれている。これはこの、ファンならニヤリとする対決構図を考える水木翁のことだからオマージュのようなものだろう。

 余談だが、油すましという妖怪に姿を与えたのは、水木しげるとする説が有力だ。『妖怪名彙』では、
【肥後天草島の草隅越という山路では、こういう名の怪物が出る。ある時孫を連れた一人の婆様が、ここを通ってこの話を思い出し、ここには昔油瓶下げたのが出たそうだというと、「今もでるぞ」といって油すましが出て来たという話もある(天草島民俗誌)。】
と記されている。これは、柳田の述べるように怪物の話なのだろうか。水木が描くような姿の妖怪なのだろうか。
 こういう可能性もある。これはサガリ(木から、馬の首がぶらさがるという怪)系+音声の怪なのではないか、という可能性である。「油瓶下げたのがでる」という部分に京極夏彦が注目している。つまり、油すましとは、油瓶が下がってくる怪なのではないか、という説だ。このへんはみなさんの判断に依るほかない。



妖怪研究のススメ〜前編〜
 妖怪と接するにおいて、読んでおくと色々楽しめる書籍等を紹介する。妖怪研究っていう題目だが気軽に見ることをおすすめする。
 楽しいものから、ためになるものまで、厳選し、一挙に紹介!


<妖怪画>

1:鳥山石燕 画図百鬼夜行  (国書刊行会)
2:竹原春泉 絵本百物語〜桃山人夜話〜  (国書刊行会)
3:暁斎妖怪百景  (国書刊行会)
4:国芳妖怪百景  (国書刊行会)
5:稲生物怪録絵巻  (小学館)
6:にっぽん妖怪地図  (角川書店)
7:江戸妖怪かるた  (国書刊行会)
8:妖怪図巻  (国書刊行会)
9:大江戸化物図譜/アダム・カバット  (小学館文庫)
10:怪奇鳥獣図巻  (工作舎) 

1は、基本中の基本。現在の妖怪のルーツがここにある。
2〜4は、妖怪画の巨匠による名画集。
6は、全国の妖怪画を集めたもの。「稲生物怪録」も収録。
8は、石燕以前の江戸の妖怪画を集めたもの。
10は、『山海経』を大和絵にしたもの。


<研究資料>

11:妖怪の本  (学研)
12:幽霊の本  (学研)
13:日本の神々の事典  (学研)
14:日本の妖怪  (河出書房新社)
15:百鬼夜行絵巻をよむ  (河出書房新書)
16:幻想世界の住人たちW<日本編>/多田克己  (新紀元社)
17:百鬼夜行解体新書/村上健司+スタジオハードMX  (Koei)
18:幻想動物事典/草野巧  (新紀元社)
19:日本妖怪大全/水木しげる  (講談社+α文庫)
20:日本説話小事典  (大修館書店)

11〜15は、妖怪画の紹介や、コラムも豊富で読みやすい。
16、18、19は図鑑形式。18は、世界各地の妖怪も所収。
17は、映画、アニメなど多岐のジャンルの妖怪を紹介。
20は、説話を検索できて重宝する。


<妖怪論など>

21:妖怪談義/柳田國男  (講談社学術文庫)
22:水木しげるの妖怪談義  (ソフトガレージ)
23:百鬼解読/多田克己  (講談社ノベルス)
24:妖怪馬鹿/京極夏彦・多田克己・村上健司  (新潮OH!文庫)
25:憑霊信仰論/小松和彦  (講談社学術文庫)
26:井上円了 妖怪学全集1〜6巻  (柏書房)
27:妖怪学入門  (すずさわ書店)
28:怪異の民俗学1〜8巻  (河出書房新社)
29:妖怪草子/荒俣宏vs小松和彦  (学研M文庫)
30:江戸の悪霊祓い師/高田衛  (ちくま学芸文庫)

21は名著。妖怪研究の際には、よんでおきたい。
22、24、29は対談集。

 一応、厳選したが、少々補足が必要だと思うので、選にもれた書籍も後日公開する。
 それでは、後編に続く。



妖怪研究のススメ〜後編〜
 妖怪研究のススメ、今回は、少し文学的見地からアプローチ。


<古典>

31:百物語怪談集成  (国書刊行会)
32:近世奇談集成  (国書刊行会)
33:耳嚢/根岸鎮衛  (岩波文庫)
34:甲子夜話/松浦静山  (平凡社)
35:初期江戸読本怪談集  (国書刊行会)
36:大坂怪談集  (和泉書院)
37:上田秋成集  (岩波書店)
38:平田篤胤  (吉川弘文館)

 31は、『諸国百物語』、32は、『宿直草』などを収録。
 37は、『雨月物語』、『春雨物語』などを収録。


<小説>
39:河童・或る阿呆の一生/芥川龍之介  (新潮文庫)
40:怪談・奇談/ハーン  (角川文庫)
41:霧の晴れた時/小松左京  (角川ホラー文庫)
42:鏡花短編集  (岩波文庫)
43:遠野物語・山の人生/柳田國男  (岩波文庫)
44:姑獲鳥の夏/京極夏彦  (講談社ノベルス)
45:わらう伊右衛門/京極夏彦  (中央公論新社)
46:巷説百物語/京極夏彦  (角川書店)

 41は、「くだんのはは」を収録。43は、小説じゃないかも^^;
 44は、京極堂シリーズの第一作。現在、七作出ている。
 45は、「わらう」の変換ができない^^;四谷怪談の京極解釈。
 46は、ドラマにもなった人気作。


<その他>
47:新耳袋  (メディアファクトリー)
48:都市の穴  (双葉社)
49:京都魔界案内/小松和彦  (光文社)
50:明治妖怪新聞/湯本豪一  (柏書房)
51:地方発明治妖怪ニュース/湯本豪一  (柏書房)
52:妖怪旅日記/村上健司・多田克己・京極夏彦  (角川書店)
54:伝染る「怖い話」  (宝島社)
55:民俗学がわかる。  (朝日新聞社)
56:猫楠/水木しげる  (角川書店)
57:うしおととら/藤田和日郎  (小学館)
58:もっけ/熊倉隆敏  (講談社)
59:虫けら様/秋山亜由子  (青林工藝社)

 44は、現代百物語の決定版。現在、第七夜まで発売中。
 48,54は、都市伝説についての書。
 56〜59は、漫画。オススメは57。


 以上に挙げたもの以外の好著を紹介。

60:芳年妖怪百景  (国書刊行会)
61:妖怪事典/村上健司  (毎日新聞社)
62:妖怪画談/水木しげる  (岩波書店)
63:境界の発生/赤坂憲雄  (講談社学習文庫)
64:妖怪と楽しく遊ぶ本/湯本豪一  (河出書房新社)

 



百物語
 昔より百ものがたりと言ふ事の侍る。まづ灯心を百筋ともし青紙にてはり、座中の刀脇差等をかくし、さておそろしき咄一つ咄て灯心一つ消し、だんだん百筋のともし火皆打ち消し侍れば、必ずばけもの出ると言ふ。(享保二年成『和漢怪談評林』所収「百物語の由来」)

 江戸期に百物語はそのスタイルを確立した。『諸国百物語』、『御伽百物語』などは百物語怪談集と呼ばれる。百物語怪談集は、その数も非常に多く、その盛況ぶりが伺える。
 百物語怪談集の盛況のかげには百物語があった。百物語とは百物語怪談会のことである。冒頭が百物語の法式である。その起源を遠く中世の百座法談や巡物語あたりまで遡るとしても、戦国の世には武辺の練胆の場として真摯な習俗でもあった。それが江戸の泰平の世ともなれば多分に遊戯的享楽的な性格が加わることになり、一夜無聊を慰めかねた人たちのつれづれの所為となる。百物語怪談集は概ねこの種の百物語に拠っていたのである。
 
 灯火きえんとして又あきらかに、影憧々としてくらき時、青行灯といへるものあらわるる事ありと云。昔より百物語をなすものは、青き紙にて行灯をはる也。昏夜に鬼を談ずることなかれ。鬼を談ずれば、怪いたるといへり。(『今昔百鬼拾遺』鳥山石燕)

 これは青行灯という妖怪の説明文である。石燕の画では角のはえた鬼女として描かれる。青行灯は百物語にあらわれる妖怪で、鬼の話をすると行灯の後ろから青い影のように現れたという。
 ここで怪=妖怪と位置づけられていることに注目したい。妖怪の本質は有形無形にとらわれない。いわば怪が妖怪の本質だろう。怪が人間によって肉付けされ、妖怪として認識され得る。故に、いかに優れた次元で妖怪解釈を行おうと、その本質にたどりつくことはできない。なぜなら、怪の前提とは理解不能であることだし、その意味で妖怪は不可侵の領域の住民であるからだ。

 現代においても百物語の方式をとる怪談集は多々ある。特に出色の出来なのは『新耳袋』(メディアファクトリー刊)だ。『新耳袋』は、現在主流である幽霊譚の割合が比較的少ない。よくわからないという怪そのものの初期衝動とでもいうべき話が多い。妖怪としか形容できない不思議な話も収められている。(「狐狸妖怪のはなし」)この書籍は、毎回九十九話の怪談が収録されている。百話でないのはもちろん、怪に至るからである。これを一夜で完読すると、怪が訪れるというウワサは絶えない。その怪で自分だけの百物語が完成するのかもしれない。

 何故夏に異界の住人は跋扈するのか。それは人間の活動が活発になる時だからであろう。いわば、我々と彼らは表裏一体なのだ。





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