「浮世絵にみる魑魅魍魎の世界」展 展示リスト〜前編〜 |
| 静岡県島田市博物館に赴き、「浮世絵にみる魑魅魍魎の世界」展を鑑賞して来ました。数回に渡り、その特集を組もうと思います。今回は、展示リストの前編です。
「新形三十六怪撰」 月岡芳年
1.目録 2.貞信公夜宮中に怪を懼しむの図 3.さぎむすめ 4.武田勝千代月夜に老狸を撃の図 5.大森彦七道に怪異に逢ふの図 6.清玄の霊桜姫を慕うの図 7.老婆鬼腕を持ち去る図(「茨木」) 8.鬼若丸池中に鯉魚を窺ふ図 9.小町桜の精 10.為朝の武威痘鬼人を退く図 11.内裏に猪早太鵺を刺図 12.清姫日高川に蛇タイと成るの図(「道成寺」) * 13.蒲生貞秀臣土岐元貞甲州猪鼻山魔王投倒ノ図 14.鍾キ夢中捉鬼之図 * 15.地獄太夫悟道の図 16.藤原実方の執心雀となるの図 17.平惟茂戸隠山に悪鬼を退治す図(「紅葉狩」) 18.皿屋敷お菊の霊 19.藤原秀郷竜宮城ゴコウ(百足)射るの図(「俵藤太」) * 20.布引滝悪源太義平霊討難波次郎 21.葛の葉きつね童子にわかるるの図 22.仁田忠常洞中に奇異を見る図 23.清盛福原に数百の人頭を見るの図 24.那須野原殺生石之図 25.業平 26.三井寺頼豪阿ジャ梨悪念鼠と変ずる図(鉄鼠) * 27.蘭丸蘇鉄之怪ヲ見ル図 28.ほたむとうろう(「怪談牡丹燈篭」) 29.大物之浦ニ霊平知盛海上に出現之図 30.小早川隆景彦山ノ天狗問答之図 31.二十四孝狐火之図(『本朝二十四孝』) 32.宗祇 33.源頼光土蜘蛛ヲ切る図 34.節婦の霊滝に掛る図 35.茂林寺の文福茶釜 36.四ツ谷怪談 37.おもゐつつら(『宇治拾遺物語』「舌きり雀」)
*は漢字が変換できなかったものです。カナ書きされているものがそうです。 ( )内の説明は拙文です。
|
|
|
|
「浮世絵にみる魑魅魍魎の世界」展 展示リスト〜後編〜 |
| 展示リストの後編です。
「皿屋敷 1〜7」
38.菊女が霊 三ヶ月上人(北斎漫画)/葛飾北斎 39.おきくの霊[菊五郎] 横山鉄山[団十郎]/守川周重 40.こし元おきく 朝山鉄山・・・/歌川豊国 41.おきくの亡霊 横山鉄山・・・/歌川豊国 42.おきくの霊 うへ木屋十作・・・/歌川豊国 43.植木屋十俊 おきくの霊/歌川豊国 44.歌舞伎座座中満久・皿屋舗化粧姿鏡/豊原国周
「牡丹燈籠 1.2」 豊原国周
45.梅幸百種之内(於米の霊) 46.怪談・牡丹燈籠
「四谷怪談 1〜3」
47.小倉・擬百人一首/歌川国芳 48.ちょうちんのゆうれい[菊五郎]民谷伊右衛門[三十郎]/歌川国貞 49.田宮伊右衛門 小佛小平[早替り お岩の霊]/豊原国周
「その他 1〜9」
50.女幽霊図/應楽 51.古今未曽有工夫の幽霊・尾上梅幸/歌川国貞 52.五百機/歌川豊国 53.かさね/歌川豊国 (「怪談真景累ヶ淵」) * 54.朝倉當吾/歌川国芳 55.相馬の古内裏に将門の姫君 朧夜叉/歌川国芳 56.西海蛋女水底ニ入テ平家ノ一族ニ/一猛斎芳虎 57.浮世絵大津之連中睡眠の図/河鍋暁斎 58.昔ばなし舌きり雀/歌川芳盛
「和漢百物語 1〜7」 月岡芳年 (仮名垣魯文) *
59.二十五葉(目録) 60.小野川喜三郎 61.楠多聞丸正行 62.貞信公 63.白藤源太 64.田原藤太秀郷 65.貪欲ノ婆々
「四天王 1〜4」
66.大江山酒呑退治/歌川芳艶 67.源頼光館土蜘蛛作妖怪図/歌川国芳 68.酒田公時・碓井貞光・源次綱・妖怪屋敷ノ図/歌川国芳 69.四天王化物蝋燭/無款
「動物の怪 1〜4」
70.岡崎八ツ橋村の妖怪/歌川国定 71.化け猫/歌川豊国 72.日本駄右衛門猫之古事/歌川国芳 73.於吹島之館直之古狸退治図/歌川芳年
「その他 10〜13」
74.しんばんおばけづくし/艶丸画 75.新板化物尽/勝川豊丸 76.ばけ物尽し/歌川芳春 77.東海道五十三対日坂 (母親の霊)/歌川国芳
*( )内は拙文。 |
|
|
|
| 月岡(大蘇)芳年 天保10〜明治25(1839〜1892)
「狂気の絵師」、「血みどろ絵の画家」と呼ばれる浮世絵師、芳年。武者絵、役者絵のなど数々の作品を世に残しているが、その残酷性がよく取り沙汰にされる。芳幾との合作「英名二十八衆句」は、一連の血なまぐさい作品の中でも特にすさまじい。 その芳年には、もう一つの顔がある。それは、妖怪画の大家としての顔だ。 前回、前々回のリストで、月岡芳年の作品が多かったことに気づいた方も居られるかもしれない。先の特別展では、芳年の妖怪画の代表作「新形三十六怪撰」を全て見ることが出来た。生で観るそれは、すさまじく心に響くものであった。 極彩色で彩られた怪しい画の数々。その迫力は筆舌に尽くしがたいものであった。 「新形三十六怪撰」は、芳年が生涯、重要なテーマとして探究して来た妖怪画の集大成である。古来より伝えられる作品を新しい感覚で描いたことから、<新形三十六怪撰>と題したと考えられている。 「新形」は「神経」に掛けてあり、また画面枠の虫食いのデザインは作者の神経異常からくる描写であるとの説がある。その点については、後に触れようと思う。 「新形三十六怪撰」は、説話の一シーンを取り出し、ダイナミックな解釈でそれを描ききっているところが最大の魅力だろう。 例えば、「茨木」の一場面を描いた「老婆鬼腕を持ち去る図」では、伯母に化けた鬼が、渡辺綱の元から腕を奪い返す場面を描いている。老婆が毛むくじゃら鬼の腕を持ち飛び去るシーンの、スピード感あふれる描写が美しい。 他にもすばらしい作品があるが、この場では割愛させていただく。説話の題目などは、前々回のリストの( )内に記してあるのでそちらを参照して頂きたい。 芳年の作品に共通するテーマを一言で述べるとするなら「怪異趣味」がしっくりくるように思う。 残酷画、妖怪画を多く残した芳年には、明らかに何かが見えていた。それは、芳年の幽霊画のあたかも見て描いたかのような迫力からもうかがえる。 明治期に入り、芳年は強度の神経衰弱に陥る。結果、発狂して没したといわれる。 芳年は、この時代の妖怪が生きてきた状況の中で明らかに呼吸をしていた。観念的な闇を絵画に残した数少ない才能に間違いはない。 芳年は、幕末から明治にかけての闇になにかを感じ取っていた。 芳年について、こういう逸話がある。 彼は、ランプが流行してからも薄暗い百日ローソクの下で食事をとっていたという。 それは何故だろう。芳年は何を感じ、そして生きたのか。 一つ言えることがある。それは、芳年が時代から、闇から感じ取っていたそれは、妖怪と呼んで差し支えないものではなかったか。少なくとも自分にはそれを疑うことはできない。 |
|
|
|
| 「油すまし」という名で一般的に知られる妖怪について考えてみたい。 現在最も知られている、蓑をつけ、地蔵のような顔を持った油すましの風貌は、漫画家、水木しげるの画に由来する。 今でこそ比較的メジャーな妖怪であるが、元来、油すましはあまり名の知られた妖怪ではなかった。油すましが広く知られることとなった一因に、柳田國男の著作「妖怪名彙」で紹介されたということがある。そこでは、
アブラスマシ 肥後天草島の草隅越という山路では、こういう名の妖怪が出る。ある時孫を連れた一人 の婆様が、ここを通ってこの話を思い出し、ここには昔油瓶下げたのが出たそうだという と、「今も出るぞ」といって油すましが出て来たという話もある(天草島民俗誌)。スマシとい う語の意味は不明である。
とある。 これは、引用文中にもあるとおり、『天草島民俗誌』を元に書かれた文章である。これが後の油すまし観に大きな影響を与えることとなる。 ただ、柳田は『天草島民俗誌』とは違った記述を何箇所かしている。『天草島民俗誌』から件の部分を引用すると、
油ずまし 栖本村字河内と下浦村との境に草隅越と言ふところがある。或る時、一人の老婆が孫 の手を引きながら此処を通り、昔、油ずましがをつたといふ話を思い出し、「此処にやむか し油瓶さげたとん出よらいたちゆぞ」と言ふと、「今も―出る―ぞ―」といつて出てきた。
となっている。 柳田の文章と比較すると何箇所か相違がある。注目したいのは、以下である。 まず「妖怪名彙」では「油すまし」と記述されていたのに対し、この文では「油ずまし」と記述されていること。そして、「妖怪名彙」で存在した、怪物という記述がないことだ。 この二つの相違については、柳田の功罪と言っても決して大袈裟ではない。何故なら、これによって「油ずまし」という怪異の伝承は、「油すまし」という名の怪物が現れた話としてイメージが限定されてしまったからだ。名前の相違はもちろんだが、ここで柳田が怪物と断定してしまったのは特に問題である。この伝承は、怪物が出現したという怪異ではない可能性があるのだ。 例えば、作家の京極夏彦は、油すましについて、油瓶を下げた怪物が出たのではなく、油瓶が下がってくる怪である可能性がとの説を唱えている。 何かがぶら下がってくるという怪は、主に南方に多く伝わる怪で、「妖怪名彙」にも、ツルベオトシ、フクロサゲ、ヤカンヅル、サガリなどが収められている。 「妖怪名彙」の収録順には大まかな法則性があり、この「ぶら下がってくる怪」についても例外ではない。実は柳田はこの系統に油すましを入れていて、ヤカンヅルとフクロサゲの間に収められている。これは、柳田が油すましを「ぶら下がってくる怪」と認識していたということではないだろうか。 では、何故柳田は油すましを怪物と断定する表現を行ったのか。柳田がここで用いた怪物という語の定義が、現在多く理解されている怪物の定義とは異なるであろうことは推測できる。ただ、もう一つ、単行本化の際、この油すましの項目にあった「今でも坂参照」という一文が無くなっているようだ。この省かれた部分に油すましを知る大きなヒントがあるように思う。 今でも坂というのは、詳しい場所は定かではないが、油すましと同じく天草地方に伝わる伝承で、「イマモ」とも呼ばれる。 その伝承を『幻想世界の住民たちW』から引用する。
峠道を歩いているとき「昔ここには血だらけの人間の手が出てきたそうだ」と旅人が話していると、「イマモ!」と声が響き渡って、血の滴る手首が坂をごろごろと落ちて追いかけてきました。驚いた旅人が必死に逃げ出して休んでいた時、「ここでは人の生首も落ちてきたそうだ」と口に出して言ってしまうと、今度も「イマモ!」と声がして生首が転がってきました。
「イマモ」とはおそらく「今も」ということだろう。この伝承は、油すましの伝承と共通する部分が実に多い。 まず、噂をすると起こる怪異であるという点だ。昔あった怪異という話という内容も似通っている。 次に、「今も」というという言葉とともに怪異が起こるという点だ。言葉のディティールに若干の違いはあるが、同一の意味であると見て間違いはなさそうだ。 そして、(油すましについては断定できないが)怪物が出るという怪ではないという点だ。 これらの共通点は何を示しているか。それはおそらく、この二つの伝承が類型であるということだ。どちらが先に存在したかは断定できないが、どちらかが変形した伝承であることほぼ間違いないだろう。油すましの伝承は、怪物が出現した怪ではなく、「ぶら下がりの怪」と音声の怪異である可能性は極めて高い。 そして、冒頭で述べたように、油すましが現在のような姿を持つようになったもう一つの原因は、水木しげるの描いた画にある。 水木しげるの代表作「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪は、大きく分けて二つの出自がある。それは、古くから描かれているもの、そして、伝承に水木が姿を与えたというものだ。 「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する悪玉妖怪の多くは、江戸時代の画家、鳥山石燕などが描いた妖怪だ。それに対し善玉妖怪は、柳田國男が「妖怪名彙」で紹介した妖怪に水木が姿を与えたものがほとんどである。 そして、その水木が姿を与えた妖怪の一つに油すましがあった。 水木の作品が有名になったことにより、そこに登場する妖怪の多くに出自が存在することが知られることとなった。だが、そこで問題があった。水木により姿を与えられた妖怪と、古くから姿を持つ妖怪が混同されることとなったのだ。 例えば、一反木綿や塗り壁など作品に頻繁に登場する妖怪は水木による画であると認識する人は多いだろう。だが、油すましなどは、古くからその姿で存在していたと世間に誤解を与えてしまったのだ。 このことは、大映の「妖怪百物語」という映像作品に、独自の解釈がなされた古典妖怪とともに、水木が描いたそのままの姿の油すましが登場することなどからも伺い知れるし、そもそも現在において油すましといったら、水木の描いたあの姿を想像するのが普通なのではないだろうか。ましてや、油すましがあのような姿の妖怪ではない可能性など考えもしないだろう。 だが、矛盾するようではあるが、妖怪とは得てしてそういう性質のものであるとも思う。語弊があるかもしれないが、妖怪とはそもそも人間の創造したものである。怪異そのものも妖怪であるが、それと同時に、共有され、名、姿を与えられた怪異もまた妖怪であるのだ。むしろ、現在においては、後者のほうが妖怪として認識されやすいのかもしれない。 故に伝承における油すまし、現在知られる油すまし、どちらも妖怪として間違っているわけではない。油すましに限らず、決まった姿を持たない、それが妖怪なのだから。 油すましとはどんな妖怪なのか。それは、あなたの想像に依るしかない。
参考文献
・「妖怪名彙」(『妖怪談義』所収) 柳田國男 講談社学術文庫 ・『天草島民俗誌』 濱田隆一 郷土研究社 ・『幻想世界の住人たちW』<日本編> 多田克己 新紀元社 ・『妖怪事典』 村上健司 毎日新聞社 ・『百鬼夜行解体新書』 村上健司+スタジオハードMX Koei ・『妖怪馬鹿』 京極夏彦 多田克己 村上健司 新潮OH文庫 ・【図説】『日本妖怪大全』 水木しげる 講談社+α文庫 |
|
|